
中国の「鉄道外交」が崩れ始めた今、日本は油断してはならない
中国が掲げた「一帯一路」構想の象徴ともいえる高速鉄道外交が、いま大きな転機を迎えている。アジア全域を結ぶという壮大な夢は、遅延と債務の膨張によって現実の重みに押しつぶされつつある。とりわけインドネシアの高速鉄道「ウーシュ(Whoosh)」の事例は、中国のインフラ輸出モデルが抱える脆弱性を浮き彫りにした。日本にとっては巻き返しのチャンスが訪れているように見えるが、同時に注意すべきは、中国がこの失敗をただの経済的な誤算として片付けるつもりはないという点だ。
「ウーシュ」は2023年、東南アジアで初めて開業した高速鉄道路線として話題を集めた。首都ジャカルタと商業都市バンドンを結ぶ全長142キロのこの路線は、中国が設計・資金・建設を一体的に提供する形で進められた。総事業費は約72億ドル、そのうち75%を中国資金が占めるという、まさに「中国方式」の象徴だった。
しかし現実は理想とはかけ離れていた。建設は度重なる遅延で4年もずれ込み、最終的には10億ドルを超える追加コストが発生。開業後も利用者数は予測を大幅に下回り、運営コストは膨張した。インドネシア側のコンソーシアムは多額の赤字を計上し、政府は中国と債務再編交渉に追い込まれている。
つまり「中国モデル」は、見かけ上は魅力的でも、実態は借金と依存の連鎖を生み出す“負債のわな”に他ならない。インドネシアが当初、日本の提案を退けて中国案を採用したのは、金利が低く、建設も早いという触れ込みに惹かれたためだった。だが十年を経た今、「あの決断は正しかったのか」という反省の声が現地で高まっている。
中国の鉄道外交は、単なるインフラ輸出ではなく「政治影響力の輸出」である。建設費の大部分を中国金融機関が貸し出すため、受入国は数十年にわたって中国との債務関係に縛られる。その過程で、鉄道運営のノウハウ、人材育成、保守契約までも中国企業が掌握する。こうした構造は、インフラを通じた“ソフト支配”と呼ぶにふさわしい。
インドネシアだけでなく、ラオス、タイ、マレーシアなども同様の問題を抱えている。ラオスでは中国からの借金がGDPの3割を超え、鉄道の運営権を実質的に中国が握る状況だ。これは経済協力の名を借りた政治的従属であり、東南アジアにおける中国の影響力拡大戦略の核心でもある。
鉄道事業の遅延や債務問題が続く中で、「中国は失敗した」と断じるのは早計だ。むしろ中国は、この経験を糧に戦略を再構築している。今後はAI・スマートシティ・EVインフラなど、次世代の技術支援を通じて“第二の一帯一路”を構築する可能性がある。鉄道がその中核であることに変わりはない。
シャオミ、BYD、ファーウェイなど、中国のテクノロジー企業が次々と新興国市場に進出しているのも、この“複合型影響力外交”の一環だ。つまり、鉄道を入り口として通信、AI、エネルギー分野まで包括的に支配する構造を狙っている。鉄道が単なる移動手段ではなく、情報とデータの回線として機能する時代、中国の鉄道外交はサイバー空間にまで拡張しつつある。
日本にとって、中国の失速は確かに追い風だ。日本の鉄道技術は世界でも高く評価されており、安全性・耐久性・透明性の面で中国とは一線を画している。実際、インド、フィリピン、ベトナムなどでは、日本の支援による鉄道計画が再評価されている。
だが、日本が勝つべき相手は中国企業ではなく、「中国的な影響力の構造」そのものである。価格競争ではなく信頼の蓄積、スピードではなく透明なプロセスこそが、日本の強みであり続けるための条件だ。中国が提示する“短期的な利益”の陰にある長期的な支配構造を見抜き、パートナー国と共に健全な発展モデルを築けるかが、日本の外交力の真価を問う。
中国の鉄道外交によって東南アジア諸国が抱える債務問題は、日本にとって他人事ではない。もし日本が技術や投資で関わる際に透明性を失えば、同じ構造に巻き込まれるリスクがある。特に、AIやスマートインフラの分野では、中国がすでに日本の企業や研究者に接近し、技術吸収を狙っている。インフラをめぐる競争は、単なる経済対立ではなく、国家の情報主権と倫理観が問われる戦いに変わりつつある。
中国が鉄道外交でつまずいている今、日本は国際社会から再び信頼を寄せられつつある。だが、この好機を一時的な優位と勘違いしてはならない。重要なのは「日本が何を建設するか」ではなく、「どのような未来を共に築くか」だ。
中国のインフラ戦略が一方的な支配を目的とするなら、日本の鉄道外交は共創と信頼の基盤でなければならない。日本が再びアジアのインフラ発展を主導できるかどうかは、技術以上に理念の勝負にかかっている。